大塔の名前の由来は?

私の住む田辺市の大塔地域は、かつての旧大塔村と同じ範囲です。知人から「奈良にも同じ名前の村があったね、何か由来があるの?」と言われ調べてみました。
この地域は、平成17年(2005)に田辺市や中辺路町、龍神村、本宮町などと合併して、現在の田辺市の一部となりました。
「大塔村」という村名は、昭和31年(1956)に三川村、富里村の一部、鮎川村の一部が合併して誕生しました。当時の村長たちが連名で提出した資料には、「大塔の宮護良親王の遺跡、伝説数多く、3つの村すべてに残っていること」「どの村にも偏らないこと」「全国的にも有名な人物であること」などが理由として挙げられ、村名が公募で選ばれました。
では、その由来となった「大塔の宮・護良親王」とはどんな人物だったのしょうか。
大塔宮護良親王は1308年(延慶元年)、後醍醐天皇の皇子として生まれました。非常に賢く人望のある人物であったため、幕府から危険視されたのか比叡山に入ることとなります。
1331年、比叡山が幕府軍の攻撃を受けると、親王は楠正成の赤阪城へ逃れます。しかし、落城後は熊野を目指して山深い道を進みました。そのルートは諸説ありますが追手から逃げるため、わかりにくい山道を選んだことは間違いありません。
大塔地域には、大塔宮護良親王の足跡にまつわる伝説がいくつか残っています。
-親王の従者が空腹と疲労で倒れ、その場所に小さな祠が建てられている。

-鎌倉で親王が殺害された後、家臣と里人が宝剱をご神体として熊野剱宮を建てた。

(2020/9の「田舎暮らしの楽しみ・秘境と歴史の散歩」の記事で紹介しています)
-「餅つかぬ里」という伝承

(2020/12の「山里の正月料理に思う」の記事で紹介しています)
現在でも大塔地域は深い山に囲まれています。道が整備されていない当時の道のりは今以上に困難だっただろうと思います。権力争いの中で運命に翻弄された大塔宮護良親王の物語は、静かな山村の風景に哀愁と華やかさをそえているように感じます。
あれから800年も過ぎた今でも、大塔宮の伝承は多くの人々を惹きつける魅力を持っています。 それ故に、この地域に「大塔」という名前が付けられたのでしょう。
今回も最後まで読んで頂いて有難うございます。