田舎暮らしの楽しみ・秘境と歴史の散歩 ~その一~
私の住む田辺市大塔地区の名の由来は、後醍醐天皇の皇子 大塔宮護良(おおとうのみやもりよし)親王が、都から落ちのびる際に立ち寄ったという故事からですが、歴史ある名所・旧跡が数多く、歴史好きの私にとっては嬉しい場所で、そこを訪ねるのが田舎暮らしの大きな楽しみです。
何回かに分けてそれらを紹介させ頂き、大塔地区の一つの良さを知って頂ければと思います。
先ず最初は行きやすい(笑)『熊野剱宮跡』(くまのつるぎのみやあと)です。
県道219号の「餅搗かぬ里」(もちつかぬさと)として大塔宮伝説が残る小川地区を進むと、「剱・宮跡」バス亭と「熊野剱宮跡」の案内板があります。
(※今はバスは運行していません)
林道を下り、沢沿いの道を500mほど秘境の景色を眺めながら進むと、沢の対岸を結ぶ橋があり、これを渡ると「剱の宮跡」に到着です。
石碑と案内板が立ち、さらに鳥居の先には小さな祠がお祀りされています。
建武元年(1334年)十月、大塔宮は足利氏の企てにより、鎌倉に幽閉され、この時に宮の側近達も次々と捉えられました。
そんな中で竹原兵庫の守と平賀三郎の両人は巧みに逃れ、むかし落ち延びたこの地に着きました。
後に、敵の手により宮が非業な最後を遂げられた事を伝え聞いた平賀三郎は仏門に入り、宮の菩提をとむらい、竹原兵庫の守は宮より拝領の剱を「熊野剱宮」としてお祀りするようになったのが起源とされています。
その後、明治時代に鮎川住吉神社に合祀され、今は神社跡になっています。
訪ねると “ なぜ!竹原兵庫の守はこの地に社を建てたのか? ” との思いに。。
食料を懇願する大塔宮一行を邪険にした事を悔いて、以降600年間正月になっても餅をつかなかった伝説から判る様に、小川の人々の大塔宮にお詫びがしたかった心根に感じ入ってこの地としたのでは。。
色んな思いを馳せながら後にしました。