山里の正月料理に思う。
山奥の里は昔、道路が整備されていなかったせいか正月の料理に珍しい物があります。
その中でも大塔小川地区の巨大な里芋の親芋を使った「ぼうり」という料理は、特に異彩の正月料理です。
親芋を2日間干し、丸ごと皮をむかず2日間煮込むという大変手間のかかる料理で、味付けは、かつお・にぼしで出汁をとり、醤油・みりん・砂糖・塩を使い甘めにし、中まで軟らかくして食べます。
お正月の雑煮餅の代わりとして代々食べられて来ました。
この珍しい料理が受け継がれてきた訳は、実はある出来事によるもので、そのために小川地区は「餅つかぬ里」として600年の間餅を食べられなかったのです。
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後醍醐天皇は1331年に鎌倉幕府の倒幕に失敗しました。その息子(皇子)の大塔宮護良親王(おおとうのみや もりよししんのう)は幕府に追われる事となり、わずかな家臣とともに熊野詣の山伏を装って、再起のため熊野に逃れてきました。
大塔宮一行が小川の里にさしかかったとき、宮一行はあまりの空腹に里の者に食べ物を求めました。
時はちょうど年末。
どの家でも餅をついていましたが、幕府より山伏姿の者に便宜を与えてはならない布令が出されていたため、里の者は宮さまだとは知らずに餅をあげずに追い返したのでした。
後にその山伏一行が大塔宮護良親王の一行であったことを知り、餅を差しあげることができなかったことを悔やみ、里の者は餅を全て近くの川に投げ捨てました。
以降、非礼をお詫びするために、いっさい正月に餅をつかないことを「しきたり」としました。
これを600年固く続けましたが、昭和10年(1935年)京都の大覚寺で大塔宮護良親王の600年御遠忌法要が営まれた際に、小川地区の代表者が参列して、600個の餅を供え、昔の非礼をお詫びし、それからは正月の餅をつくようになりました。
伝統的な正月料理なのに、地元小川ではほとんど作られない料理となっています。
効率化、利便性を求める時代の流れなのでしょうね。。
私は可能な限り流れにさからい伝統は残して行きたいと思います。